マグカップ選びで何より大切なのは、”縁の部分”の口当たりなのではないか?ということを最近考えている。
好きな飲み物を準備して、「一息入れるか」と腰を下ろした後、飲み物そのものより先に口に触れるのは、マグカップの縁だ。
例えば私はよくコーヒーを飲むのだけれど、コーヒーを楽しむという体験は、その液体を飲む以前から既に始まっていると感じる。
素敵な香りの湯気がマグカップから立ち上ってくるのと同時に、ゆったりと、充実した空間にあたりが染まっていくのを感じながら、唇をカップの縁に当てる、その瞬間こそ、むしろ至福ではないか。
この記事の一番上に載せている写真のマグカップは、三宮のミント神戸に入っている雑貨店で、コーヒーを淹れたら似合いそうな色合いだなぁ、と思って買ったものだが、実際に使ってみて、その口当たりの”しっくりくること”に驚いた。
外側に軽く湾曲し、丸みを帯びた縁は、唇の形によく馴染む。
そのまろやかな印象は、コーヒーの液体そのものにも受け継がれ、いつものコーヒーがいつもより柔らかなものに感じるのだ。
(スプーンを変えたら、これまで毎朝のように食べていたはずのヨーグルトがまるで別物に感じた、という経験もこれまでにしたことがあるが、マグカップに限らず、”口に直に触れる食器”というのは、食べ物のおいしさに大きく影響を及ぼすものだと思う。)
もう一つ、このマグカップのお気に入りポイントは、内側の色合いにある。
全体的に茶色で、ところどころ紺や緑のニュアンスが透けて見えるような、きれいな斑模様になっているのだが、コーヒーをいれると、その内側の色味と液体がゆるやかに同化し、底が見えない。
自身の筒の内側(食道、胃、腸……)を覗き込んでいるような気持ちにもなる。
そこには果てしないまどろみがあり、眺めていると、時間という概念が溶けていく。
終わりのない休息――体ごとコーヒー世界の深淵に攫われていくようだ。
しかし、全てのマグカップには必ず底がある。
真っ白なマグカップは終わりが分かりやすいが、このマグカップの場合、いつも”いつの間にか”底が露出している。
コーヒーが尽き、コーヒー色の内側を見つめるのは、不思議な気持ちだ。
まだ体の端っこが淡くあっちの世界に繋がっているのか、不思議と名残り惜しくない。
「よっこらしょっ」と、
ゆるやかに繋がった世界と、ゆるやかにさようならをして、私のコーヒーブレイクは幕を閉じていく。